昔、私は「悟りをひらきたい」と思っていました。
そのときの「悟り」のイメージというか、「悟りをひらくとどういう状況になるか」、「どういう人物になるか」、というのは、
・何者にも動じない
・どんなことにも動じない
・常に気分が一定で怒らない
・どんなものにも満足する
・人生のゴール
・死ぬことが怖くなくなる
あとは、もしかすると宗教によっては「罪が消える」とか「地獄へ行くことがなくなる」という感じなのかな、というイメージもありました。
つまり、「悟りをひらきたい」と思う気持ちには、「悩んだりイライラすることなく幸せな人生を送りたい」という思いがあったのだと思います。
どうすれば悟りを開くことができるかというと、どこかで修行をしたり、悟りを開いた人に色々と教わるというか弟子入りをすることで実現できると漠然と思っていました。
たぶん、オウム真理教などの信者の方々も目指すところはそういうものなのだろうと思います。それゆえ、「悟りをひらいた」という教祖を信じて盲目的に従ってしまったのだと想像します。
自分の考え方、やり方が間違っているから苦悩すると思っているわけなので、教祖が言ったことを間違っていると思ったとしても、それは「自分と考えが違うということは、今までの自分が間違っていたということ」と理解して自分の判断を捨てて盲目的に従ってしまったのではないでしょうか。
これはあくまでも私の想像で事実とはかけ離れているかもしれませんが・・・。
まあ、それはともかく、私は超越瞑想を学んで、インドに代々伝わってきた「教え」についても学んでいます。
現在の「悟り」の理解としては、
・神経系統が浄化される
・世の中の仕組みを体験によって理解する。
・世の中の仕組みが理解できるので、何が起こっても結果として動じない。
・内側からの喜びにあふれているため、世の中の変化に動じない。
・感動することや楽しいものを見たり体験したとき、確かにそうだと思いつつも自分の内側の喜びが大きいために印象としては薄いため心に深くは残らない。
・自分自身に満足しているため、世の中のすべてのものに対して期待もせず落胆もない。
つまり、「悟り」というのは「自分自身が開花した状態」であって、何か良いことを考えたり何か良い行動をするとかによって悟るのではなく、瞑想によって身体と心を浄化するというか強くするというかストレスを除くというか、それによってピュアな状態になり、結果として良い人になるということですね。
良い行いをしたり、身体に良いものを食べるというのは、それによって悟りへの道がスムーズになるということです。「マスト条件」では無いと思われます。
「マスト条件」とは、「毎日欠かさず瞑想を行うこと。」
それによって自動的に悟りへの道へと続きます。
したがって、どんな宗教を信じていても、また瞑想を信じていなくても、ましてや「悟り」を希望したり切望する必要もないということです。
まったく自動的に「悟り」の状態へと行く道がそこにあります。
それを私は学びました。
そして、今は超越瞑想を教える教師の立場になっています。
もし興味のある方は、ぜひお話をしましょう。けっこう楽しいと思います。