「悟り」という言葉を聞くと、どんなイメージでしょうか。
「高尚なお坊さん」とか「自分には無理だぁ」とか「何かに気付くことでしょ?」とか、人によって色々ですね。
言葉としては、
「あいつはもう2度とここにはこないと悟った。」
のように「気付く」とか「理解した」という感じで、なおかつちょっと悲しい気分のときに自分に言い聞かせる場合に「悟る」という言葉を使う気もします。
私が「悟る」という言葉を聞いたときは、「この世のすべてを理解することだ」という意味に思います。
「この世がどういう成り立ちで、自分はどうすればよいのか、何が正解なのか?」
という疑問に答えがでるとか、
「他の人たちに振り回されず、モノに対する執着もない。」
という感じもあります。
「悟り」については、「超越瞑想と悟り」という本の中で「どのような状態なのか?」が解説されています。
ちなみに、「色々な欲求が全部無くなるのか?」という疑問もあるかもしれませんが、食欲などの欲求は生命の基本なので無くなることはないそうです。当然ですが。
「悟りを開くと欲求が無くなる。」
という表現をする人もいるので紛らわしいのかもしれません。
そして、「悟り」というのは物理的なものだと思っています。
私は瞑想を毎日やっていますが、どちらかというと「浄化」というものも感じます。心や体の浄化です。
「悟り」は決して「思索」や「善行」、「無執着」から来るものではなく、体の浄化という物理的な行為が必要という感じです。
「思索によって悟りは得られない」
というのは体験的にそう思いますが、今度改めて説明してみます。
さて、今日のタイトルは「悟り」と「生命」です。
「悟りを開くこと」は、自分自身に目覚めることだと思っています。
それはすなわち、「生命を感じること」でもあると想像します。
毎日、髪の毛が伸び(私の後頭部を除く)、爪も伸び、細胞が入れ替わります。それは無意識に行われています。
外に出てみると、草木や動物、虫なども同様に成長しています。
多くの生命が成長しながら生きています。
世の中には生きているものが多くあります。
自分だけではなく、多くの生命が存在しています。
そういう意味では、友達も取引先も敵も、みな同じ生命ですし、木や草も動物も虫も同じ生命です。みんな生きています。
「悟り」というのは、多くの生命と共に生きる喜びを感じながら生きていくことではないかと想像していますが、いかがでしょうか。
くどいですが、こういう話をすると「どうしたの?森ちゃん、今日は弱ってる?」と言われそうですが大丈夫なはずです。(^_^)
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