私は毎日の瞑想が習慣になっています。
剣道や武道などで最初に行う瞑想や座禅などは、それほど宗教っぽく感じないようですが、「瞑想を毎日やっている。」という表現だと、なんだか宗教っぽく受け止められます。
それはそれで別にいいのですが、ちょっとだけ違和感を覚えるときがあります。
瞑想にも色々と種類があって、ろうそくを見つめたり、何かを考えたりとか、その手段が異なります。
ちなみに、何か宗教で教えがあったり、何か道徳的な制約を言われたりすることもあるかもしれませんが、瞑想中は「言葉の無いところ」、つまり意識の源まで行くので、言葉でどんな指示を受けたとしてもそれは外側の世界であって、瞑想中は完全に自分自身の世界になります。
宗教をやりながら瞑想をしている人は、「自分のやっている宗教の意味がわかった」とか「理解が深まった」という感想を持つことが多いようですが、それはたぶんどの宗教も同じ所から出発しているのだと思っています。
つまり、「すべての源」です。
瞑想は、そこを直接体験することができる「手段」です。
宗教は、それを解説することと、そこへたどり着くことで幸福になるというメッセージ、そして世の中の法則について教えながら、人を成就へと導くものだと思っています。
瞑想自体は宗教ではなく、ベーシックな行動で、それをベースにして自分の快適な生活をするときに宗教を選択するというイメージを持っています。
ですから、本来は宗教同士で争うこともなく、宗教を恐れることもなく、どんな教えかを興味深く聞いてみても良いものだと思います。
しかし、すべての源にたどり着く手段がなくて理論だけで動いている宗教の場合には、土台の無い建物のようにガッチリとした感じがないような印象があります。
私はあまりよく宗教のことはわかりませんが、「幸せになりたい」と思う心はみんな一緒ですね。
宗教に関しては、かなりややこしくて難しい問題が横たわっていると思いますが、瞑想を取り入れることで違う宗教同士がわかりあえる日がくるかもしれません。
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