ランボ2台とベントレーを持っていると、さすがに自分でも「物欲のカタマリ」とか思いますし、他からは「いいですね」「うらやましい」「自分には無理」と言われたりします。
「自分も頑張ります」と言われるのが1番嬉しいのですが、かえって自信をなくす人がいると申し訳なく思います。
自分の思いを実現するには「お金」が必要ですが、「お金」がすべてではありません。自分の人生における「ダルマ」が重要だと言われていますが、長くなりそうなのでまたの機会にするとして、物欲やお金など自分の外側の「常に変化を続ける相対世界」と、瞑想で体験できる「不変の絶対世界」との話をしておこうと思います。
私の人生の参考書、「超越瞑想と悟り」から引用します。
ちなみに、紹介記事はこちら。
http://morimasaya.jp/2009/11/post-31.html
インドの古典バガヴァッド・ギーターの詩節と、それを解説している本です。
---------------------------------ここから引用
詩節44 享楽や権力に深く執着している者たちや、これら(華やかな言葉)に思いがとらわれている者たちの心には、理知の確固とした状態が生じることはない。
相対世界に関する偉大な知識をもっている人たちの中にも、「絶対」に関する英知を兼ね備えている人はいます。文字も読めないような人でさえ、自らの「存在」である絶対の至福を楽しむことができるのですから、学識のある人にできないはずはありません。
この詩節で述べられているのは、世俗的な享楽や権力に対する異議でもありませんし、また、それらを獲得するための方法である、行動に関する『ヴェーダ』の英知に対する異議でもありません。
栄えある『ヴェーダ』の儀式は華やかな言葉で表されていますが、それを聞くことによって心が享楽や権力に夢中になってしまう、ということに対する異議がここで述べられているのです。
常に行動の領域にかかわっている人が、行動、特に行動に関する『ヴェーダ』の方法によれば、どんなことも達成可能であると宣言したとしても、それは驚くべきことではありません。行動に関する『ヴェーダ』の方法は、疑いなく、どんなことをも達成するための直接的な道を提供するからです。
しかし、こういった意見は、確かに生命の相対領域においては正しいのですが、絶対の「存在」とは明らかに関係のないものです。
「実在」の全体は、生命の形に現れた面と、形に現われた面との両方から成り立っています。
ところが、『ヴェーダ』の「カルマ・カーンダ」の英知しかもっていない人たちは、形に現われた領域の中だけで願望を抱いています。行動に関する英知からは、形に現われていない「実在」に関する英知を、直接得ることができないのです。
「絶対」という形に現われていない領域に関する知識が欠けているために、そのような人たちは『ヴェーダ』で述べられている行動の領域を超えたところには何もない、と華やかな言葉で宣言します。(詩節42)
詩節43では、行動の魅力にすっかりとらわれている心が描かれました。心は行動のすばらしさを宣言する華やかな言葉に魅せられ、活発で多様な活動の中に巻き込まれていきます。そのような常に活動的な心は、当然のことながら、確固とした理知の領域の外にとどまってしまいます。
世俗的な喜びと、努力と行動によって進歩しているという感じのために、心は引き続き外側の活動にかかわり続けます。そのような心が、自分から確固とした状態へと集束していくのは容易なことではありません。
なぜなら、活動している心は多様性の場にかかわっているのであり、それは確固たる状態へ集束していく過程とは明らかに反対のことであるからです。
意図をもち、導きが受けられる場合にのみ、たとえ「享楽や権力」のただ中にあったとしても、心は一点集中の状態を得ることができるのです。
次の詩節では、そのような拡散した心を確固とした状態に導く方法の原理が示されます。
---------------------------------引用ここまで
で、次の詩節45へと続きます。ちなみに、この本の中でとても重要なのが詩節45です。
私がTM瞑想を知ったときは貯金も何もゼロの状態で、半年かけてお金をためて学びました。それから毎日朝夕行っていて、だいぶ内側の土台が固まってきた頃から色々なものが良い感じになっていきました。
欲しいものを手に入れても、自分の内側が満たされていないと何も楽しめません。逆に、自分の内側が満たされていると、外側に関係なく楽しむことができます。
内側が満たされてくると活動的になったり効率的になったりして、外側も変わってくるというのが今の段階での私の感想です。
>他からは「いいですね」「うらやましい」「自分には無理」と言われたりします。
「自分も頑張ります」と言われるのが1番嬉しいのですが、かえって自信をなくす人がいると申し訳なく思います
>>僕も似たような感じです。ランボ2台+ベンちゃんGT+フォードGT+チャレストの現在5台です
ろくな努力もせず、他人の生活を羨むものが多すぎます
持論ですが、”数字の伴わない努力は努力とは言わない”です
何にでも言える事ですが、出先で「あんな車、普通に働いてたら買えねーよな」って言われて見ず知らずの人に説教垂れた事が有ります
努力もしないで、他人を羨む奴は沢山居ます
俗に言う、”負け組”って人種です
僕は、持論と信念を以て生きてる森さんに会えたことに感謝を憶えます
物欲万歳\(^o^)/
>浄尋さん
確かに、数字の伴わない努力っていうのは努力とは言えないという感じはします。判定の期間にもよるかもしれませんが、競争社会だと置いていかれますね。
物欲は人を進化させる気がします(^^)