今日もまた、今の時点で感じている事の話です。(^^)
「性善説」と「性悪説」っていうのがありますね?
私はどちらかというと「性善説」かな、と思いますが、「性悪説」も「人間は元々悪い」というよりかは「人間は本来、欲望や欲求が強い」という感じのようです。
つまり「性善説」は生きていく過程の中で、
「良くない行為をしてしまうようになる」
「他人のことをを考えずに自分の欲求を先に満たすことを覚えてしまう」
という人間になってしまうという話で、「性悪説」は成長すると共に
「社会の中で人との関係を良くする事を学んでいく」
という意味だと思います。
私が「性善説と性悪説」を興味深いと思うポイント、まずひとつめは「まったく同じ物を見ているのに、人によって結論が違う」ということです。
一方は「最初から悪い」で、もう一方は「最初は良い」ですね。対象物は同じ「人間」について語られています。
普段も感じますが、友達と何かを食べたり何かを楽しんだりしたあとで感想を話すとまったく違うことがあります。
その人の過去の経験や直感的な好みなどの影響があると思いますが、ほんとに色々な人が色々な意見を持っています。トップリーダーや政治家が批判されることって必ずありますが、それはしょうがないと思うところでもあります。
リーダーは人の意見を聞くのは大事ですが、それに振り回されてはいけないというのも、このあたりが理由だと思います。
「性善説と性悪説」という言葉は、まさに「人の意見はバラバラ」という象徴のようにも聞こえます。(^^)
で、次のポイントですが、「善と悪という2つに分けて考えている」ということです。
以前、「二元性」という記事を書きました。
http://morimasaya.jp/2009/12/post-52.html
読み返してみると、「あいかわらず言葉足らずで適当に書いてるなぁ」と自分でも思いますが、特に補足説明はしないでおきます。
「善」や「悪」は人が判断しているものです。
「元々は善、元々は悪」「人間の本性は悪、善」
という表現を見かけることがありますが、「元々」や「本性」に善や悪はありません。
どちらかというと善や悪の概念は「自分にとって」とか「自分の都合で考えると」という部分が大きい気がします。
「社会にとって」とか「一般的に」という言葉から始まって「こういう人は善」と言っても、その「社会」や「一般的」という定義自体がその人の定義になっています。
変化する相対界では、善に見えたり悪に見えたりとか、同じ人でもその時々で違う感想を持ったり、時間が経つと評価が変わったりします。
変化の無い絶対界はすべてに浸透している普遍のものです。インドのヴェーダでは、まずは自分自身を絶対の場に確立して、そこから行動することが勧められています。
結果的に、すべての人が各個人で快適に過ごすことができれば社会のストレスも無くなり、そうなると「性善説」や「性悪説」という話も意味のないものになると思います。
つまり、「性善説」や「性悪説」という分析をしているのを見ると、「けっこう困った状況にいるのかもしれない。」という判断をしてもいいのかな、という感じです。
インドのヴェーダという膨大な知識の中でも最も大切なポイントは、
「二元性を離れて在れ」
ということで、それを実現するための技術が「瞑想」ということになります。
コメントする