「思索によって悟りを開くことはできない。」
と思います。
しかし、
「悟りを開くためには思索は必要。」
だと思います。
つまり、「思索」は悟りを開くために必要なもののひとつという風に思っています。それと、「思索」が必要無い人もいると思います。
思索の他には、知識もまた必要のようです。瞑想や食べ物、日常の過ごし方など日々を快適に過ごすための知識です。
なぜ、思索によって悟りを開くことができないと思っているかというと、世の中には言葉で表現できないものの方が圧倒的に多いからです。
それについての以前のブログ記事は、こちら。
http://morimasaya.jp/2010/05/post-178.html
「悟り」は、毎日の生活において何も苦しむことなく、喜びに満ち溢れて、何も困ることなく人生を謳歌する状態だと思っています。
思索によって「悟った」という場合、例えば
「人間は何かあれば悩むのだから、悩むことがあるのは当然だ。だからこれでいいということがわかって気が楽になった。」
とか、
「苦労することによって成長することがあるので、苦労もまた良い。」
とか、どちらかというと辛い状況と共に生きていこうという結論になる場合もあるようです。
それは、切れない包丁を研がずにキャベツを切りながら「これでいいんだ。」と思うことに似ています。
思索はあくまでも言葉のレベル、意識の表面のレベルでの行為です。
想念の源へとさかのぼると、そこには言葉はありません。
意識のレベルでは思索はできません。
「この世のすべてを知る」
ということは、意識についても知ることで、それは言葉では理解できないという意味になるのではないでしょうか。
「思索」を行っているうちに、ふっと無心になることがあり、それを目的にするなどもあったりして、色々なやり方があり、目的も方法も違うようです。
ただ言えることは「思索」によって世の中の答えを見つけるのは難しいということです。
言葉にならないものを理解するには、言葉にならないところに行く必要があります。
私が毎日行っているのは、想念の源へ行き、それを超越する方法なので、「超越瞑想」と言われています。
自分の内側に「無限」があることを言葉でないところで「知る」ことができる方法です。