前回の続きです。とりあえず、(2)で終わりです。(^^)
http://morimasaya.jp/2011/02/post-442.html
2-49
【英語の本の原文】
Far away, indeed, from the balanced intellect is the action devoid of greatness, O winner of wealth. Take refuge in the intellect. Pitiful are those who live for the fruits (of action).
【超越瞑想と悟りの本での訳】
偉大さを欠いた行動は、実に、安定した理知からは程遠い、富の征服者よ。理知をよりどころとせよ。憐れむべきは(行動の)成果のために生きる者である。
[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーによる解説]
引用ここから-------------------------------------------------
「安定した理知(ブッディヨーガ)」とは、前の詩節で説明したように、平静を得た心の状態のことです。
(中略)
尊主クリシュナが行動のヨーガについて語ったこの詩節や他の同様の詩節が、過去何世紀にもわたって誤って解釈されてきたことは、不幸なことです。
なぜなら、誤った解釈のために、人々は無執着という名の下に、行動における活力や忍耐を失ってしまったからです。その結果、個人と社会の両方の構造そのものが、怠惰で無気力な弱いものとなってしまいました。
(中略)
尊主は「憐れむべきは、(行動の)成果のために生きる者である」と言っています。自分の行動の結果を期待するような人は哀れな人であるというのです。特にこの表現は、注釈者たちに大きく誤解されてきました。
彼らは、「働きなさい。しかし、その結果をあてにしてはいけません」と人々に助言してきました。しかし、行動は必ず何らかの結果を得るためになされるのであり、はっきりした結果を何も望まないで行動するということはありえないことです。
尊主がここでアルジュナに示そうとしているのは、心のレベルを高める、すなわち、永遠の自由における枠のない意識状態へと心のレベルが高まるようにすることで、行動の価値をも高めるという一つの原則です。
矢を放とうとするときには、まず最初に弓をいっぱいに引き絞ります。もし、あわてていたために十分に弓を引かずに矢を放ったとしたら、目的は達成できないでしょう。矢は的まで届きません。行動は力のないものとなって、行為者も満足できないままにとどまってしまいます。
尊主が言おうとしているのは、行動の成果を得ようと焦るあまり、行動を強力にするための十分な準備をせずに行動し始める人たちは憐れむべきだ、ということです。多くの注釈者が間違って解釈したように、行動の成果を得ようとしたから憐れむべきなのだ、というのではありません。
そうではなく、そのような行動では十分な成果が得られないから憐れむべきなのです。かわいそうなのは、行動から最大限の結果を産み出して、願望を成就させる方法を知らないからです。
彼らがかわいそうなのは、原因に気を配ることなく、結果にばかり気を取られているからです。こうして彼らは、向上の機会とより多くの利益を得る機会をのがしてしまいます。
理知は行動の源であり原因です。だからこそ、尊主は「理知をよりどころとせよ」、「偉大さを欠いた行動は、実に、安定した理知からは程遠い」と言っているのです。
引用ここまで-------------------------------------------------
けっこう長い部分から抜粋しました。本文には、もっと興味深い内容があります。(^^)
文章は難しいかもしれませんが、内容的には前回と同様に「行動によって結果が決まる」ぐらいの単純な感じに思ってもいいかもしれません。普通に考えれば「そうだよね」という内容なのがまた、この本の良いところです。無理やり納得する必要はありません。
結果にばかり気を配る状況というのは、例えば「朝、寝坊して時間に間に合わない」という状況のときもそうですね。
「10分後に家を出る」と決めたら、顔を洗ったり服を着る時間をだいたい頭の中で計算して計画を立てて、それ以降は時計も見ないで行動すれば、たいていは8~9分後ぐらいで出発できるような気もします。
そのときに、時計を何度も見たり、「間に合わなかったらどうしよう」とか余計なことを考えないほうがいいという感じです。
「行動から最大限の結果を得る」というのは、10分を切るような素早い確実な行動をすることで、そのためには健康も大切ですし、頭の中がスッキリしている必要もあると思います。
ヨーガの必要性というのは、日々の活動がスムーズで実りあるものにするためでもあります。